くらり

メンヘラと中二病

死ぬ死ぬ詐欺にはうんざりですね

そうでしょう。
早く死んでしまえと、そう思っていらっしゃるのでしょう?

手首を、手首?腕?を切っても、私は生きている。死にたいと呟いたその口で、将来の話をする。
とても矛盾しているでしょう、そうでしょう。
けれども、それは、一つの防衛であるのだ。

現実で、声高に、死にたいと唱えても、頭のおかしい人としか認識されないでしょう。あの人はおかしいから、近付いてはいけない。とか。
世間の目程、恐ろしいものはないと思うのです。世間一般から、「普通」と判断されなければ、淘汰される世の中です。恐ろしくて仕方ないでしょう。

自傷行為はいけないこと。
死にたいと思うのはおかしい。

それは世間の判断ですが、それに従わなければ、どんなに恐ろしいことが待っていることか。
だから、私は生きているのです。いつかは死にますが、今は。


相談を、しないのかと、よく問われる。何を?と聞けば、その憂いをと。
自身の憂いを他人に話して、一体なんの解決になるというのだ。迷惑をかけるだけではないか。
普通の幸せを望んでいる彼らに、「私死にたいの」と、相談したところで、何になるというのだ。困らせるだけではないか。
「死にたい」と言う人間に対して、「じゃあ死ねよ」と返す程の非情さを、持ち合わせた人間など友人関係には居ない。居て欲しかったかと問われれば、否とも是とも言い難い。
死んだ後の憂いを、考えたくはないのだ。死ぬ前に全て消してから、そうして、一つの文を残して。

毎日、遺書のようなものを書いている。
とても稚拙で、乱雑で、読むに耐えない代物だが、そうして積み重なった憂いを、ひと月分、ボウっと燃やす時、先月分の私が死んだと思う。
擬似の自殺が、憂いは消えては増えていく一方だが、今日の自分が生きていける理由にもなるのだ。