くらり

メンヘラと中二病

かなしい

幸せになりたい。
私の中での定義として確立した幸せを手にしたい。
人に認めてもらいたい。取り繕った表面だけ見ないで欲しい。褒めて欲しい。

無い物ねだりばかりしている。
特に他人が持っていて、自分が持っていない物ばかりを欲しがる。羨ましいのだ。それを胸に抱く彼らは、とても幸せそうな顔をしているし、きっと其れさえ手に入れば、私も幸せになれる。
そう信じて夢を見ている。本当に幸せになれるかは、わからない。まだ手に入れてないから。

最近、自分と全く同じ構造をしているのに、思考や言動は全く異なるという点に関して、人間に恐怖を抱く。
自分と同じように、何かを考えているのに、それが分からないのが恐ろしくてたまらない。自分と違う思考が恐ろしい。
実際、それに気付くまで、他人がロボットか何かのように思えていた。
彼らは皆、プログラムされた思考回路で生きていると思っていた。そんな筈は無いのに。

私は弱虫だ。自分の思い描く通りの未来が望めないからと、逃げることで正当化している。努力もしていないくせに。

何をするにも中途半端だ。最後までしっかりとやり遂げたものが数える程しか無い。
何の努力もせずに、努力している人間に嫉妬して、「自分もそうなりたかった」とこうべを垂れるのは、ひどく滑稽だと思う。

幸せになるための努力。
最近、自分が何をしたいのか良く分からない。唯一つ「楽になりたい」という理由で突き動かされている。 そうだ、私は楽になりたいのだ。
この世のすべての憂いから解放されたい。

憂いが、日に日に増していく。一つも解決しないまま、増えていく。死んだ後の憂いまで、浮かんできてつらい。
楽になるために死ぬのに、その手段でさえ憂いを有するならば、もうどうしようもない。そうやって結局のところ、私は死すらからも逃げているのだ。
死ぬのは怖い。「死」は、決して負の概念を有してはいないが、やはり、終わるというのは恐ろしいではないか。

死ぬ過程に恐怖を抱く。この恐怖をどうにかしない限りは、私はきっと死ねない。

死ねば幸せになれるかと問われれば、どうだろう。
きっと、私が死んでも悲しみはいつか薄れるだろうし、抑悲しんでくれる人がひと握り居るか居ないかなので、その点に関しては気にしていない。葬式を、恐らく地元で行うので、わざわざ遠くから参列するのであれば、申し訳ないと思う。

一番の憂いは、母と一部の人間だ。彼女たちはきっと、私の死をネタにして、悲劇を演じるだろう。私は人の話のネタにはなりたくない。故人はそうされるのを嫌う。

遺書には必ず書いておこう。
毎日書いている遺書のようなものには、必ず書くよう心掛けているので、大丈夫だとおもうが。